足利義詮(あしかが よしあきら)の事件簿
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人質事件1333年に伯耆国船上山にて挙兵した後醍醐上皇討伐する為に父足利尊氏は兵を率いて鎌倉から出陣。 そのとき義詮(当時は千寿王)は人質として鎌倉に母・登子と共に留め置かれた。 母は当時の執権・北条守時の妹で足利尊氏の正室 赤橋登子。と考えると人質というよりも里帰りと考えるのは現代の視点でしょうか?鎌倉からの脱出劇足利尊氏が鎌倉幕府を裏切ると家臣が幼い義詮(当時は千寿王)をつれて鎌倉を脱出したそうです。 桶狭間の戦いの後、徳川家康は妻の筑山殿と子供達を救出していますがよくあったことなのでしょうか? |
足利義詮の年表 |
1330年生まれは元徳2年6月18日(1330年7月4日)で母は赤橋 登子(あかはし とうし)。足利尊氏の嫡男です。 |